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ウジイユタカ

ユタカの部屋 vol.78  早坂実氏

ウジイ:今日はよろしくお願いします。最初にお会いしたのは40年ぐらい前ですかね?

ハヤサカ:僕今年で40年なんですよ、スタジオ始めて。 南栄町で15年、ここで25年なんですよ。 愚かしい恥ずかしい歴史を40年も繰り返しているという…。

 

ウジイ:昭和平成令和と続く山形のエンターテイメントというかカルチャーについて今日は聞きたいんです。

ハヤサカ:僕が分かる範囲でしか話せませんけどね。

ウジイ:裏方でずっと見てきたと思うんですが、 あの頃はこうだったね、みたいなそんな話をお願いしたいです 。まずは自己紹介というかこんな職業をしていますというのお話お願いします。

ハヤサカ:何屋かというとこですよね。何屋ってのは難しいんですよね。何なんだろう?今現在からいうと、コロナの影響をもろに受ける職業ですよね。ということは直接衣食住には関係がないという。まあエンターテイメントなんていうとかっこよすぎなんですけれどもね。

僕は二十歳過ぎてから山形に帰ってきて…小学校までは山形にいてそれからずっといなかったんで。約10年ぐらい。小学校時代の幼稚な早坂少年はいなくなって、そこそこ生意気なことを言い出すような二十歳過ぎになって戻ってきて、という感じですね。

そこで思ったのは 今でも山形にギャップを感じているんですが、ここで何が一番楽しくできるんだろうということを考えた時に音楽と放送だったんですよね。音楽と放送に関わりたいということで今まで来てしまっているという感じですかね。

音楽といってもそれこそ格式高いクラシックというようなものではなくて、まあバンドとかそういうことですけれど。ただ僕はキリスト教の世界にずっといたので、聖歌や賛美歌やアカペラや、そういうことを普通にやる世界にいたので、若干その辺の聖歌隊みたいなそんなこともやってきたので。 僕らの世代でいうと正しくロックの洗礼を受けたりフォークムーブメントの中にいたりというのとはちょっとかけ離れたところにいたもんですから、音楽的な背景もちょっと違ったりするんですけど。まあ音楽と放送というところに関わりたいということで生きてきて、多くのバンド仲間の方々にスタジオを使ってもらうという、そういう仕事とかレコーディングをする仕事とか、ライブの時に音響が必要だと言われれば音響も行ったりとか、そんなことを背景にラジオやテレビの仕事に関わらせてもらったりとかそんな感じの仕事ですかね。

ウジイ:山形に戻られてすぐに音楽スタジオ始めたんですか

ハヤサカ:もう亡くなって10数年になりますけど親父が持っていたテナントの建物の一角を占拠したんです、勝手に。親父から「何やるんだ?」って言われて、「スタジオやるんだ」と。「親父に分かりやすく言うと楽団だ」とか言って。親父は元々電気技師で真空管アンプなんかを組み立てていて。それでレコードなんかもたくさん持っていて。音楽が好きだったのでね。まあ親父がそういうのいっぱい聞かせたから僕がこうなったと、そんな感じで人のせいにもできるんですけど、そういうことで占拠したんです。でも「ここで赤字を出すんだったらとっととやめさせて雀荘やるからな」と言われまして。まあ親父は当時建設業やっていたんですけど、僕は親父の仕事を継ぐような真面目な人間ではなかったので、「俺はやらない」って言ってたんですけどね。

マーケティングとか何も考えてなくてただ面白いからやっていたとでやったら面白がってくれる人が少しずつ増えてきたと。そういうことから始まって僕の人生は正しく曲がって行ったと言うか(笑)

 

ウジイ:僕高校生の頃にあそこの2階のスタジオに何回かお邪魔しました。

ハヤサカ:そうやって人生狂っちゃった人が何人いたことか…いや申し訳ないことをしました。

 

ウジイ:今でもメインのお客さんというのは若い方が多いんでしょうか?

ハヤサカ:バンドというものが随分様変わりしまして、ひとつはデジタルになったりパソコンになったりということと、他のジャンルもそうなんでしょうけど若い子達は他に楽しみが増えて「集中的にバンドに」言葉を選ばずに言うとクレイジーにのめり込む人は多くなくなったなっていう感じはします。熱心なのは逆に割と、高齢とは言いませんけどそういう年齢の人が多いかな。若い人はやることいっぱいあるんでしょ。浅く広くいろんなことをやってるという印象が僕にはありますけどね。昔はクレイジーにいってましたよね。今そういう人はいないかな。

ウジイ:当時こんな面白いやつがいたなーっていう何かエピソードはありますか?

ハヤサカ:昭和の時代は音楽で食っていくっていうこと=山形を離れて東京に行くっていうことと同義語だったのでね。決死の思いでみんな東京に行く。いかない奴はちょっと諦めみたいなそんな時代でしたよね。今はネットがあるからここにいたって別に配信はできるから挑んでいけるとは思うんですけど。当時は音楽でやっていくという第一歩は東京に出て行くということでしたよね。行った人達で今でもプロとして活躍している人は何人かいますね。高校でバンドをやって面白いというかすごく手応えがあって、自分たちのバンドの解散コンサートを市民会館小ホールで自主開催したりとか、というぐらいのエネルギーとかがある人がいましたしね。その中からやはり一生の生業としていくという人もね。元Tスクエアの須藤満君なんかそんな感じでしょうか。そうかウジイ君の同級生か?俺らが誘ったというよりはそんな時に営業のバンドしてくれと言ったような記憶もどこかにありますね。当時から上手だったんでしょうね。

 

ウジイ:当時からベースだったんですか。

ハヤサカ:最初はドラム叩かせましたけどね。ギャラがなくてラーメン一杯でごまかしたような記憶があります(笑)

ジャズシーンで活躍してる人とかもいますよね。

ウジイ:こっち(桜田)に移ってきたきっかけって何かありますか?

ハヤサカ:道路拡張になったんですよ。当時まだ20代後半から30代に突入するぐらいの年齢で、まあちょっとバブリー的なところもあって。周りがすごく活気がありましたね。遊び半分仕事半分みたいな、忙しいのが毎日続いてたような気がしますね。

道路拡張になるっていうんで、生意気だからそこの土地を最初親父の本家から借りてたんですけど買い取ったんですよ。買い取ってから道路拡張になったんで、「すげー!これ売れるんだ」っていう話になって、街中に近くなくてもいいから田舎に行くかなっていうことで、田舎っていったら失礼ですけどこういうとこに来ましたね。風景はいいんですけど風当たりも日当たりも良いので暑くて寒いというとこですね。

 

ウジイ:芸工大ができたのと一緒ぐらいですか?

ハヤサカ:芸工大が出来て数年経った時です。ほんと数年後ですね。そんなこともあって芸工大の学祭には最初から関わらせてもらってました。まあでもだいぶ変わりましたよね。ここに来たのが平成すぐですからね。昭和の時代は南栄町で過ごして、平成になってすぐこちらに移ってきてということですね。

 

ウジイ:サンセットスタジオっていう名前の由来って何ですか?

ハヤサカ:僕キリスト教の世界にいたので、サンセットというのは1日の終わりじゃなくて始まりという認識があるんです。日没から日没が1日という区切りで。ガキの頃からサンセット礼拝といって夕日が沈む頃に毎日賛美歌を歌っていたという幼児体験もあるんです。そんな経験が音楽の原点だというのと、しばらく言わないでいたんですけど…退廃的なダメ人間が好きで。スタジオって「館」っていうイメージがあって、ここは斜陽館かなぁって。例の太宰の。表向きは日没が1日の始まりという意味ですが実はダメ人間の代表として斜陽館という…(笑)。自分のスタジオの名前にそんなこと考えるっておかしいですよね!?

 

ウジイ:平成に入ってから楽器がどんどん電子化してきましたよね。

ハヤサカ:そうですね。例えば「打ち込み」なんていう言葉がぼちぼち出てましたけど。それはまあ当時は、まだある種特殊な人たちというかそういう感じでしたよね。そういう意味ではまぁこのスタジオにゴロゴロとあるようなものは昔に買ったようなものも多くて。それがよりコンパクトになっていきましたし。それこそ僕らはアナログレコード盤やカセットテープの時代があって、それが CD になってレコードプレーヤーも頑張って残さないと見当たらなくなって、録音もオープンリールでやっていたものが過去の遺物になってね。今やデータで録音しているわけですから、そういう意味では実感してますよね。今から考えるとあんなにでかくて性能の良くない良くないものを、何であんなに高い金出して買わなきゃならなかったんだという。そういうリアルですよね。今ずるいなあこんな金額で買えるのを、みたいな。

こっちに移ってきて映像も始めましたけどそれはもうカメラだって何?何?何?っていう感じでしたよね。放送局に持っていけるレベルというか放送局仕様にするのに数千万かかりましたよね。当時はちゃんとしたベータカムが1000万しますよ、みたいなそんな時代ですよ。ノンリニアと言われるようなパソコンで編集するという、そんな時代の走りでしたよね。それこそ1 GB 20万円ぐらいする感じのハードディスクの時代でした。こんな弁当箱みたいなやつが4 GB ですよって、すごいでしょ、数十万するんですよっていう。そんなおもちゃみたいな話ですよ。そんなところから始まりましたよね

もう今や「打ち込み」なんていう言葉が何ですか?っていう感じですけど。まあ今レコーディングもリモートでね。それこそ山口岩男さんなんかもやってますけど、かなり自分でも精度の高いデモ版を作って、まあそれでも完成版だと言えるようなものですけども、それをデータで送って、「このベース弾いて」ってそんな風に頼むらしいんですよ。できてるやつを聞かせてこのベースこういう感じで弾いてって言うと、そのベーシストは自分のところでちゃんと録音できるようなシステムを持っていて、それを弾いてデータでまた送り返してくれるという。一度も会わなくてもレコーディングができちゃう。そうこうしながら僕もずっとバンドは続けていて、自分の曲のデータ打ち込みやレコーディングもやりつつ、お客様のレコーディングをここでやってもらったり、ライブやイベントの音響とかそんな仕事をやってます。

ウジイ:早坂さんが関わっているイベントについて教えて下さい。

ハヤサカ:僕は文章を書くのが好きなので。イベントの分野ではストーリーを書くのが一番スリリングだと思っています。でもそれはぼくが仕事を始めた40年前にはお金になりにくくて、結局それを具現化するには 自分が動き人が動き機材が動かないとお金にならないんですよ。だから機材と人と動いてきたという感じなんですけど。本当は発想とストーリーと台本で生きてきたら一番いいなと思ってるんですけど。令和の今になってもまだまだ山形ではそれじゃ食っていけないですからね。

ウジイ:今企画イベントの話が出たんですけど今までこれは具現化できたとかそういった話を聞かせて下さい。

ハヤサカ:そうですねいくつかやらせてもらいましたよね。でもやっぱり人気商売なんで、何ていうんでしょうか、新しいこととか合ってることとかということイコールウケることじゃないじゃないですか。だからウケる事って実はちょっと分かりやすくという風にしないとウケなかったりするんで…。すごく思いの丈があってすごくいいイベントなんだけどウケないということもいっぱいありました。でもやっぱり人様に理解してもらって集まってもらってという現象が起きて成功とするのであれば、まあ失敗もたくさんありますけどたくさんやらせてもらってます。

以前から高畠ワイナリーさんのイベントにずっと関わらせてもらって。すごく広がりを持ってやらせてもらってますね。アーティストと主催者の関係をとっても、その日に来て演奏パフォーマンスをして帰るだけじゃないようなことをやらせてもらったりして。当日に交通の便が悪くなってトラブルになって来られないということもあるんで、念には念をということで前の日に来てもらうことにしているんですけど。それはひいてはワイナリーに来てワインを飲まないで帰るというのはちょっと残念だなという気持ちがあって、お客様はワインを召し上がってるのに飲んでない人がおいしいですよねって言うのもなんか嘘くさいし、本当に美味しいんだということを体験してもらうために、主催者さんにお願いをして場を設けてもらって前の日に来てもらって味わっていただいています。あともう一つは、主催者さんがどんな意図でこのイベントをやっているのかと。やっぱり本番をやって帰るだけじゃ伝わらないことが、パフォーマンスをしてくださる方ご自身に伝わるってすごく重要なんじゃないかなと思っていて、そういうことをやったりするとやっぱりお客さんにも伝わりますよね。本当にワインは醸造家さんが主張や思いを込めて造っていらっしゃるものなので、その意図が出演者に伝わったりするとやっぱりすごく劇的な事になったりしますよ。そういうことをストーリーとして書いてみたりとか。あともう一つは、またワインの話になりますけど、ワイナリーで出演してもらう、人前で演奏してもらう、ワインにも交わってもらうミュージシャンの方々に、ワインはこういう思いを持って作っているということもできれば伝えたいということで、東京でワイン会をやってもらってるんですよ。それは一般の方を集めるワイン会じゃなくて、高畠ワイナリーさんで出演してもらった方々とのご縁をずっと続けていきたいということで、年に1回ワイン会をしてもらってます。そこに今まで出演してもらった方々をご招待して。まあみんな来られるわけじゃないんですけれども、都内の会場を設定してもらって、ワインって生き物だからそれこそぶどうの当たり年ということもあるし、今年はこういうぶどうですという話をしながら味わってもらいます。そうするとね、誰とはなしに演奏を始めるんですよ。素晴らしい空間になります。一般の方がいらっしゃると一般の方に向けてパフォーマンスをするというのがミュージシャンの性ですけどもそういうオーディエンスはいませんけどね。亡くなったかまやつさんなんかも演奏してもらったりしましたね。

 

ウジイ:自分たちで自分たちのためにという形ですか?

ハヤサカ:そういう風になるんじゃないかなと思ってたんだけど、そこにギターとかピアノとか置いておくのもなんかわざとらしいかなと最初は遠慮してたんですよ。そしたら「楽器ないのか?」というのが始まって、すいませんと言って次からは用意して置いとくことにしたんです。本当にそういうご縁も大切にしたいなということでね。ストーリーを書くということをその日その日に終わるというようなストーリーではなく何年も続くような。

だから最近 Instagram っていうやってる人多いですけど、あれは「インスタレーション」という「空間芸術」という言葉ですよね。芸術という言葉なんか僕には似合わないけれども、いろんなスペシャリスト、クリエイターとかがいらっしゃって。その人たちのひとつひとつのパフォーマンスには僕らは叶わないながらも好きで音楽とかをやってますけどね。そんなスペシャリストにはなり得ない僕ができることというのは、やっぱりそういう人たちが各主役の作品を、適材適所というかこの空間やこの場所ならこういう風に置いたらいいとか、こういう風に見せたらいいとか、いわゆるインスタレーション芸術みたいなことが僕の役割なのかな、というふうにいつも思っています。

ウジイ:さっきの高畠ワイナリーさんのワインフェスっていつ開催していますか?

ハヤサカ:春にはスプリングフェスタというイベントをゴールデンウィークに行って、10月には収穫祭をやってます。ワイナリーさんは今年30周年、秋は25回目の開催実績があるイベントです。僕は多分そのほぼ最初のうちから関わらせてもらってて、春にもちょっと小規模でやっていたのをちゃんとやろうとおっしゃって下さった方がいて。秋に引けを取らないようなスケールで始めました。

他に映画に関わるイベントをやらせてもらったり、「アジア国際音楽祭inしらたか」に関わらせてもらっていました。92年から2002年まで多分10年間ぐらいやってたんですよ。近藤房之助さんと小室等さんがスーパーバイザーという位置づけにして、彼らは必ず出て、彼らのネットワークでいろんな人を呼んだり、アジア2カ国ぐらいからアーティストを招聘してましたかね。そんなことに関わらせてもらいました。まあバブリーな時代なのでいろいろ協賛金とか助成金とか公的なお金も頂きながらやっていましたよ。それも白鷹という町で。なんか劇的なつながりもできたりして。そんなことを30の頃やらせて頂いてたので。そこで色々白鷹の町にお世話になりました。

白鷹音楽祭ということからつながって、映画と音楽のようなイベントをやらせてもらったりしましたね。それも白鷹で。白鷹という場所にこだわって「白鷹的音楽映画塾」という名前で、映画制作者の方や俳優さんにも来てもらって、一緒に数日白鷹で夏休みを過ごすみたいなね。亡くなった高田渡さんみたいな人に来てもらったりして歌ってもらったり飲んでもらったりみたいなこともしました。良い夏休みでした。今年お亡くなりになった大林宣彦監督にも来てもらったりしましたね。渡さんは「暑いけど気持ちいいなあ、東京にいると人を殴りたくなるような暑さなんだけどここは暑くても諦めがつく」みたいな面白いことを言って酒飲んでましたね。ちょうどね、タカダワタル的っていう高田渡さんを撮ったドキュメント映画が公開された時にイベントを始めたので、タカダワタル的じゃなくて白鷹的ってつけたんだけどね。渡さんの映画を上映したり渡さんに演奏してもらったり。なんかコアな人が結構来ましたね。2004年にそれを始めたんですけど、まさか翌年に渡さんが亡くなるとは思わなかったので、最後の夏を過ごしたのは白鷹でしたね。あんなに毎日飲んでる人に「渡さん作業行きますよ。白鷹といったら農業体験でしょう」って言って。白鷹はタバコの葉っぱの生産地で、タバコの収穫ですよって言って連れ出して。暑い中やらしたことありますね。なんかタバコってアクが強くてかぶれるんだそうですね。手がなんかずっとかぶれてたっていう話も聞きますけどね。面白かったですねえ。

そのタカダワタル的って映画を作った会社がアルタミラピクチャーズっていう映画会社で、そこの専務が白鷹出身の小形雄二という方で、劇団東京乾電池の社長だったんですよ。柄本明とか高田純次とか所属していましたけど、そこの創設メンバーの一人が白鷹町出身の小形さんで。もちろん俳優もされていましたが、現在は経営者でプロデューサーいらっしゃって、ご自分のプロダクションの経営と共に映画制作会社の経営にもタッチしていらっしゃいます。その方にあれこれお願いして。アルタミラピクチャーズっていうのは Shall We Dance、ウォーターボーイズ、スイングガールズというヒット作をどんどん出してる。その中で音楽映画っていうのをずっと作ってて。そんなつながりもあるので白鷹で映画と音楽のイベントやりましょうと言うことで始めたんです。2004年に始めて何回やったんですかね。2010年ぐらいまでやったのかな。すごく面白かったですよ。廃校になった学校の音楽室で高田渡に演奏させたりとか、音楽室にあるじゃないですかショパンとかバッハとか。その肖像画が高田渡だったりとか、面白かったですね。“ゴールデンカップス ワンモアタイム”っていう映画も作られていたので、ルイズルイス加部さんにも来てもらいました。芸工大のいわゆる立体を作るような人から、これ貸してって言って展示してみたりとか。やっぱりああいうアート作品って力があるんでね。その会場のそこそこに置いておくとなんか空間が変わるんですよね。何ですかこれって。何だかわかんないけどいいでしょうって。そんなことしてみたりとかね。町の中数箇所やってたので、夜になるとバーになったりね。夜バーやるんですよ町の施設の中で12時ぐらいまで。みんなうだうだ飲みながらそこに普通にアーティストがいたりミュージシャンがいたりして。そんなことをやったりしてました。今やっても面白いと思いますよ。

あと山寺駅前の「山寺ホテル」っていうんだけど、それが閉館廃業してから数年後にここ面白いでしょっていって美術館にしたことがあるんですよ。今は血縁の方が建物のペン画の展示をしてるみたいなんですけど、僕がやったのは、大広間ではは我々の企画展示をやったんです。まあ山寺は松尾芭蕉だから芭蕉布で作った。芭蕉布というのはバナナのような木なんですよ。その葉っぱや茎から取った繊維で織る織物が芭蕉布なんです。石垣島で伝統工芸をやっている僕の高校時代の一学年上の先輩がいて、20数年ぶりぐらいに電話して「松尾芭蕉で有名な山寺って知っていますか?そこで展示したいんですけど先輩の芭蕉布を貸してください」って言って。「面白いからいいよ」ってすごい大量に送ってきてもらってそれを展示したりしました。あとは客室が8畳間だったり10畳間だったりコンパクトな部屋があって、そこをひとつひとつ違う作品の展示会場にしたりしました。山形の鋳物を置いたり、絵を展示したりみたいなことを1ヶ月ぐらい行ったのかな。

東日本大震災の年なんですよ。山寺の立石寺も、過去の震災をきっかけに開山開宗しているという歴史を紐解くと、何百年か前に地震があってそれの慰霊じゃないですけれども当時円仁さんがやってきて開山したと。それで山寺が開かれたということもあって、だからこそやろうというそんなストーリーだったような気がします。立石寺の本堂で今は無き永六輔さんと先代の清原住職と小室等のトークショーやったんですよ。永六輔さんって多分東京の下町のお寺の生まれの方なんですよ。そういうこともあって白鷹の音楽祭の頃からお世話になってる小室さんに「永六輔さん知ってますよね。連れてきてくださいよ」ってお願いして来てもらって、面白かったですよ。

 

ウジイ:そこでのトークショーってどんな内容だったんですか

ハヤサカ:清原さんっていう先代の住職が、仏様のお話とか戦争の話とかするんですけど、最後には必ず永さんが笑いで包んでくれるんです。あと小室さんはそこでいい曲歌ったりとかしながら会場の雰囲気を見ながらって感じでしたね。別に硬い話でもなく柔らかい話でもなく。先代の清原住職がこれ知ってますかって何か文字を見せて、これは戦争に行った部隊の話でみたいな。隊長の名字の最初の文字と名前の最初の文字をとって「何々隊」って言うんですよ、「大変だったですね、悲惨だったですね」って言いながら、そしたら永六輔さんが、「ああそしたら俺エロだ」って。永六輔でしょ、俺エロじゃんって。そしたら小室さんが「そんなこと言うんじゃないよ」ってたしなめるみたいなそんなこと言ってましたね。面白かったですね。

ウジイ:現在進行形のやつを教えてもらえます ?

ハヤサカ:僕から今アプローチしてるというよりも、何か今頼まれるとか任されるとかそういうことが多いかな。こっちからあまり攻めてないなそういえば。

あと、今年はもう全然予定が違いますけど例えばムービーオンさんがやってる映画祭とか、あれなんかも手伝いさせてもらってるんです。凄いですよ、そうそうたるメンバーというか、覚悟が違うんですよね。俺は映画を撮るんだっていうすごくシンプルですけど。そこまでの覚悟がないのが一般の人っていうんじゃないのかなっていう気がします。すごい覚悟ですよ、もう揺るぎない。さっき言ったけどウケるものが良作だっていうのは、ビジネス的にはそうなんだけど、それとは違うものを駄作と言われても、赤字が出てもそれはもう結果だみたいな。そりゃウケないよりはウケた方がいいけど、みたいなそういう覚悟を持ってる人なんじゃないかな。よりそういう風になるんじゃないですかね。音楽でもミリオンセラーなんかでないじゃないですか。ていうことはちょぼちょぼヒットみたいなものがこれからたくさん出てくると思うんですけど。でもいいものは確かにいいですし、「世代とかジャンルとか飛び越えて」みたいなとかそんな感じがしますね。どうしてもやっぱり自分の同じような年だったり同じような背格好だったり、ファッションもそうだけどみんな似たような人と会うじゃないですか。それって楽なんですよね。自分と似たような人って。でも似てない人と会った方が面白いなって思いますよね。すごく変な人。心配はしたくないけど安心もしたくないのでなんか違う人といつもいたいなっていう感じはしますね。そこに面白さがあるというか。音楽でも同じような年齢の人達と同じような「あれいいよね」っていう傾向に自然になるじゃないですか。そうじゃなくて、我々の子供世代の人たちが聞いてるような音楽だと、こちらから行かないとなかなか聞けないんですけど、行ってみると「すげえこのガキ、すげえことやってるな」みたいな。あとルーツが違ったりするので我々はどうしてもね。それこそビートルズとかストーンズとかボブディランみたいなところから始まって、そのベースの上に自分を乗せたりすることがあるんですけど、若い人ってそういうことをリアルタイムには知らない人がほとんどなので。逆に言うと「何の根拠もなくすげえことやってるなあ、だったらその根拠を見つけたらもっとすごくなるね」みたいなね。若いからダメとかっていうのは全然違うなと。そんなことを言ったら年とってダメになるやつなんかいっぱいいるんだし。

その代表が僕だったりすると、なんか自分からなんかやってみないとね、何とかならないんですよね。僕らもガキの頃なんとかなると思ってやるじゃないですか。なんとかなることもありますけど、今は何とかしようと思わなければなんとかなることはなくて、希望的観測としてはいいんだけど自分で何とかしようと思わないと何ともなくて。つまり年とるとなんともなんなくて、若い頃の馬鹿がそのまま馬鹿やってると年取ったバカになるだけなので、それってどうしようもないじゃないですか。それが突き抜けるとね、違うかもしれないですよね。そこでひるむと年取ったバカになるだけで、突き抜けてしまうとなんか違うことになるんじゃないかなと。

でも令和の時代なんか気が遠くなるような気がしますね。どうなるんですかね。ネガティブに言ってるだけではしょうがないので、でもやっぱり我々の世代がしでかしてしまったことを、それこそ環境破壊とかちゃんと向き合わなきゃならないなって気がしますよね。だって貧乏だったからなんとか豊かになりたい、寒くて困ったから暖かくなりたい、暑くて困るから涼しくなりたい、って頑張ってきたんですよね人類は。その結果やっぱり寒い時はちょっと我慢しなきゃなんない、暑い時はちょっと我慢しなきゃなんないっていうことに、結果なってきてるんじゃないかなと思うんですよ。暑い時に涼しくする、寒い時に暖かくする、そんな自然の摂理と逆行することをやってきたという副作用っていうのが如実に出てきてて、それちょっとなんとかしないと。

あともう一つは経費がかかる人生を生きているので…飲み食いだの楽器だの僕なんかはダメな消費生活をしている人間の代表格なんですけど、やっぱりちょっと何か考えないとねっていう。物質的な豊かさっていうのが当たり前になってしまうと、違う幸福感とか充実感をみんな求める時代なんじゃないかなと思いますね。

我々の先輩方というか親父なんかは、まずは豊かになりたい。それが最初だったんでしょうね。それはしょうがないですよね、お腹すいたら食べたいしね。それが日常に普通に実現できるように それが目標になるのは仕方がないことで。僕なんかそれこそ楽させてもらってますから、それが当たり前の世代ですよね。すでに本当の意味で食うに困ったことないじゃないですか。そんなことがもう当たり前という環境に生きてきた人間が次に何するのかという。まあ道楽だけやっててもあまり面白くないですよね。手応えって多分そこにはないですよ。自己満足っていう安易な言葉だけじゃなくて、やっぱり手応えってなんか違うところにあるんですよね。充実感とかね。それはもしかしたら人に認知してもらうことかもしれないし、褒めてもらうだけじゃね。人って自分の都合で褒めるから。あまり褒められると胡散臭く聞こえるからね。

なんか自分で分かるんですよね。充実感って、なんか人の役に立ったなとかね、そういうことだと思うんですよね。人の役に立つってやっぱりリスクを自分で背負うことじゃないですか。みんなが怖がってるし、みんな着実に生きようとしてるから、まずリスク回避するでしょ。リスク回避すると面白くないですよね。リスクは最初から背負ったらそれこそはずれくじ引くだけだと思うけど、でもやっぱり自分がやりたいってことに関しては少々のリスクを背負わないと結果は出ないですよね。リスク回避っていうところからスタートすると多分つまんないと思いますね。それでも結局人ってどこかで自己実現というかそれをしたいんですよ。それをバーチャルの世界に求めている傾向もちょっとあるんじゃないかなと思いますね。それって寂しいですよね。バーチャルはバーチャルですから。だから何て言うんだろうな、あまり頭良くならずに理屈だけ考えずに体を動かしてみるとか。なんだか浪花節っぽく聞こえるけど本当は労働の対価というか、それが仕事のような気がするし。労働の成果が作物のはずだし。まずは動いてみないとね。動いてみて失敗したら失敗したじゃないですか。たまたまうまくいったらうまくいった。そんな気がしますね。恐れずにリスクを回避するって言うと動けなくなっちゃうから、僕も馬鹿の第一任者としてお勧めするのはまずは考えないでやってみると。考えなしで進んじゃうと僕みたいになっちゃう、とそういう感じですね。

 

 

 

 

なんか箇条書きっぽくなっちゃうけど、こんなイベントをプロデュースしています。

 

*ふるさとの風プロジェクト

”山形県大石田町でシンガーの白井貴子さんと一緒に地元の方や全国から集まってくださる方々と蕎麦の栽培を行っている。白井さんには大石田の歌を作ってもらっている。”

 

*共に生きるコンサート

”山形県寒河江市で行う障害を持つ方々と一緒にコンサート。障害がある方々のステージはエネルギーがはち切れんばかり。

ゲストは小室等・谷川賢作・庄野真代と山形出身アーティスト白崎映美・山口岩男、ゲストとのふれあいも感動的”

 

*しらたか蔵人考

”1995年(平成7年)から続く田んぼで酒米を作るところから酒蔵にその米を持ち込んで酒を醸してもらうところまでを行うプロジェクト。農作業・酒蔵作業を行いながら

美酒をいただき、作業後の直会(なおらい)では今様田楽と称して音楽演奏を楽しむ。組頭に小室等さん、指南役にかの香織さんをお願いして展開している。”

 

 

 

 

ご興味があればサンセットスタジオまでお気軽にご連絡下さい。

http://www.sunsetstudio.jp

TEL 023-624-3511

 

 

 

ありがとうございました。

 

 

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