【ユタカの部屋 vol.35 金子信之氏】
ウジイユタカ(以下ウ:)ではまずお名前からお願いします。
カネコ(以下カ:)金子信之です。
ウ:金子さんの経歴、まずこういう学校卒業して、こういう職業を経て今の仕事をしてますとかそういうところを教えてください。
カ:出身は山形ではなくて長井市です。幼少期は小国町の方にいまして、高校は日山形で野球やってたんで下宿生活でした。
ウ:そのときの成績とかはどうだったんですか?
カ:甲子園には行きました。一つ上の先輩もセンバツ高校野球に出場しています。1回戦敗退ではあったんですけども、高校3年間結構きつい練習に耐えて、それが今いい経験をさせてもらったなと思ってますね。
ウ:日大山形高校を卒業した後は進学ですか就職ですか?
カ:就職しました。ガソリンスタンドに入って、あの当時洗車というものが結構盛んに行われた時代だったので、そこ洗車の基礎というものを学んだかもしれないですね。
ウ:ガソリンスタンドは、山形市内ですか。
カ:そうですね山形市の山形菱油っていうガソリンスタンド、今の山形市内にあるENEOSの会社ですね。
ウ:そのときの洗車やり方ってどんなだったんですか?ガソリンスタンドにある洗車っていうと洗車機でブラシが回ってっていうのをイメージするんですが。
カ:当時は洗車機で行う洗車がメインだったんですけども、内装クリーニングとか、内窓とかワックスとか、当然あったもんですからそれの基礎をそこで学びました。
ウ:洗車の基礎ってどういうものですか。
カ:お客さんが届かない部分をきちっとやるっていうことがまず基本になりますよね。お客さんが見えない部分、気づかない部分もきちっとしてあげて、お金をいただくっていうのが基本だと思っています。それをずっと続けてきた結果、今の商売に繋がってるのかなと思ってますけどね。
ウ:ガソリンスタンドで何年間働いていたんですか。
カ:そこは多分2年ぐらいしかやってないと思うんです。なぜ2年なのかっっていうと、そこでね多分1回目の夢を抱いたのかもしれないですね。カークリーニングっていう自分の天職っていうか本当にやりたい仕事がその時点で多分決まったんだと思う。
それを夢を果たすにはどうやったらいいかと考えました。当時まだ19歳20歳という年齢で、情報もそんなにない時代だったんでね、いろんな人に聞いて日本で一番稼げる仕事は佐川急便だったんですね。仙台の佐川急便のドライバーですね。当時は朝5時半くらいから夜12時半、1時ぐらいまで本当に頑張ってやったっていう経験しましたね。
自分の夢を果たすためには、それくらい努力をしないとつかめないと個人的に思ってたんで。それをなんとか頑張ろうというふうに思いましたね。
ウ:佐川急便は何年間だったですか。
カ:仙台は4年ですね。戻ってきて24〜25歳ぐらいで、カークリーニングをいざやろうと思っても、技術がまずないっていうことに気がついて。当時やっぱり情報誌が非常に少なかった時代だったんで、一旦再度運送会社に入って、いろんな雑誌をめくりながら情報収集した3年後に、今の仕事に結びつく雑誌に出会いました。韋駄天という月刊誌でそこにカークリーニングのスクーリングの募集が出てた。そこに応募したのがきっかけですね。
ウ:そのスクールっていうのはどこの会社だったんですか
カ:それは横浜にあったモービルクリーンベースっていう、カークリーニングの第一人者と言われる高木靖夫という人間の元で、修行するということですよね。
ウ:これ何の本なんですか。
カ:以前自分が横浜でカークリーニングの研修をしたときに、発行された本ですね。この本自体はアマチュア向けの本なんです。一般に発売されて、カークリーニングのお手本となる基本的な作業の雑誌ですね。
ウ:実際に横浜に住まわれて研修されたんですか。
カ:そうですね、半年くらいですね。
ウ:この高木さんって方はそのクリーニングを専門で職業にされてた方ですか。
カ:元々は一級建築士の方です。それで建築士のかたわら事務所の横にコイン洗車場を併設していました。そこにいらっしゃるお客さんにカークリーニングの指導していたという方なんです。それがいつしかスクーリングに発展してきた。スクーリングでプロを育ててこられました。
ウ:そのとき、金子さんと一緒に学んだ方々っていうのは大体何人ぐらいいたんですか。
カ:自分が行ったときは、新潟から1人いましたね。あとこれはちょっと別なんすけども。キーパーって洗車の全国チェーンがあるんですけど、その会長さんとは同じ時期に研修していました。
ウ:そこで学ばれてその後、山形にすぐ戻られたんですか。
カ:そうです。
ウ:山形に戻って、独立されて会社を興したんですか。
カ:最初は個人事業主として営業に行きました。そしたらそんなものは必要ないよといわれました。
例えばカーディーラーさんとかに、その下請けでやらせてくれないかといったんですけども、まずそのカークリーニングという部分に関しての知識とか、認識、必要性とかがディーラーさんの中では非常に薄い時代だったんですね。納車前の車に関しては社員さんがクリーニングをして納車するっていう時代だったんですよ。
社員が行うということは、一応クリーニング、綺麗にしてお届けするっていうようなことはしてるんですけども、コーティングだったり、車を磨くとかそういう技術的なものっていうのは必要性がなかった時代だったんですね、当時は。
でも1年ぐらいはまずやってみようという心構えでいたんですけども、全くといっていいほど需要がなかった。一度は店を構えてやったんですが、なかなか一般のお客さんだけでは商売としては非常に薄かった時代なんで、一旦店を閉じました。そしてもう1回チャンスが来るまで耐えてみようと思った期間が10年ありました。また佐川急便入って、とにかくお金を貯めることと、情報を収集するということを心がけてましたね。
ウ:その10年間でお金を貯めてその後に、何か風向きが変わってきたなみたいな感じですか。
カ:そうですね、その頃ガラスコーティング剤が出たというふうな情報が入って、その情報に基づきディーラーさんに出向いたんです。そしたらディーラーさんの方で需要が少しずつ出てきてますよというふうな話をいただくようになってきました。そこからですね、今度どうしようという話になって当然会社員をやってるわけですから、そっちをしますから辞めるっていうわけには簡単にはいかなかったので、ある程度期間を置いて、再度カークリーニングに挑戦したっていう感じですね。
ウ:最初の時も2回目のチャレンジの時も全く1人から始めたんですか。
カ:そうです。1人で情報収集をしなければいけない、営業もしなければいけない、作業もしなければいけない。全てを1人でやってましたんで、なかなか手薄になる部分があったんですが、でもなんていうかな。
1人増え、2人増えていって、そのうちに分担して作業ができるようになっていきました。最初の3年くらいは大変でしたけどね。
ウ:社員さんというか仲間を増やしていくにも、その人に今度教えなきゃならないというのも大変ですよね。
カ:本当にね、教えながら作業をして利益を得るっていうのはものすごい大変な作業なんですよ。だからもう社員としての扱いではなくて、一緒にやろうという仲間としての募集しかできなかったのが現状ですよね。
最初の方々はほとんどもうやめちゃいましたけど、そういう人たちがいたから基礎が構築されたっていうことは当然あります。
ウ:今は、社員さん何名いらっしゃるんですか。
カ:現在は17名ぐらいいますかね。
ウ:お仕事の範囲は、山形県だけじゃなくて、どの辺までいってますか。
カ:青森から福島まで東北全県ですね。各都道府県で社員を募集して現地採用の人たちです。その人たちは一旦ここに来て3ヶ月間みっちり研修期間っていうのがあって、そこで基礎的なこと、本格的なことを学んで、地元に戻る、そういった流れですね。
のれん分けして地元に戻る感じではなく社員という形で、青森担当、秋田担当でやらせていただくっていうことです。各県ごとに事務所があるっていうわけではなく、会社員として直行直帰で働いてもらう仕組みです。朝連絡いただいて、出勤としてタイムカードを打刻して、終わったらまた連絡もらうシステムなんで、直行直帰の店舗派遣型の社員ですね。
ウ:カークリーニングを行う場所っていうのは、各地のディーラーさんに出向いて行うとかそんな感じのイメージですか。
カ:ほとんどディーラーさんに入って現地で作業場所を借りて行う形ですね。
ウ:このピージーエス(PGS)という会社名ですが何かの頭文字ですか。
カ:最初は個人事業主としてポリッシュガレージという屋号からスタートしたんです。読んで字のごとく、「磨く工場」という意味です。一番憶えていただけるような名前にしたんです。PGSのSっていうのはソリューションっていう文字をあえてつけたんです。名古屋にポリッシュガレージっていう社名があるんですよ。ホームページを検索すると名古屋のホームページに飛んじゃう。問い合わせがあったときに名古屋にあるんですかといわれちゃうんですよ。そこで後ろにソリューションっていう名前をつけた。
それでポリッシュガレージソリューション。それの頭文字でピージーエスです。
基本的な業務は、中古車、新車ディーラーさんに出向いての出張作業、出張施工がメインになります。あと会社に持ち込んでいただくお客様に対しての作業になっております。
ウ:この新社屋を撮影させていただいて一番気になったのが、ピカピカ光る部屋というかブース、あれは何をする場所ですか。
カ:あそこの中ではコーティング作業を行っています。車を磨く作業もそうなんですけども、最終的な仕上がりでどういうふうな映り込みが見えるかっていうのが大切なんで、すごくコーティング業としては大事なブースですね。独特な配置の照明は映り込みを確認するためのものです。あとその車に対する美観。そういったものを見なければいけない。見栄えですよね。それはとにかく重視しています。あの独特な六角形の配置は元々たけのこの組織細胞を模した形です。細胞の形がライトに反映しています。特にシンガポールとか、台湾とか、アジア人がものすごく好むライトらしくて、当然日本では売ってないです。外国製のライトですね。
一つのこだわりなんですけども、カーコーティングをする人や車が好きな人って、あそこは一番魅力がある空間だと思っています。ああいうふうな空間作りっていうのは山形県内においては珍しい作りだと思います。
コーティングのブースっていうのを設けているコーティング屋さんっていうのは多分少ないんじゃないかな、というくらいのこだわったブースですね。
そのカーコーティングと、ポリッシュ磨き上げあとは内部の清掃作業ですね。トータル的なカーケアなんで外装にとどまらず、内装、エンジンルーム、足回りですね。タイヤハウスに至るまでここで全てクリーニングをやってます。
ウ:こういう職業をしていると、走ってる車がキレイだなとか、手入れしてるな、なんていうのは気になりますか。
カ:そうですね。やっぱり車がキレイな人は、安全運転している人が多いですね。うん。だからうちはただキレイにするんではなくて、今後はやっぱり車をキレイに乗っていただくことによって安全運転に繋がるような、そういった仕事をできる企業としてやっていこうかなっていうのが今の目標です。
ウ:今の会社組織をこういうふうにしていきたいなというビジョンとかありますか。
また、今ほとんどがディーラーさんからの仕事で手一杯だと伺いました。今度は個人の方々に向けても直接受注に力を入れたり、クリーニングを教えたりとか、そんな計画とかはありますか。
カ:一般のお客さんのみならずディーラーさんもそうなんですけども、カークリーニングやカーケアに関して、今まで情報が出なかった部分の情報を発信できるような会社にしていきたいっていうのはあります。
ウ:カークリーン業界全体の中で展望みたいなのありますか。
カ:正直言ってカークリーニング部門っていうのは自動車産業の中でも底辺にくる部分だと思うんですね。これをいかに格上げしていくかっていうふうな働きかけっていうのは、やっぱりカークリーニングをしている人たちの使命だと思うんですね。単なる掃除屋さんじゃなくて、やっぱりカークリーニングというものに対しての認識度っていうものを高めていくのが我々の今の望みですね。やっぱりメーカーから始まってディーラーで整備だったり板金を行い、一番最後にクリーニングして届ける。一番最後の分野なんですごくやっぱり大事な部分なんすけどね、本当は。掃除が行き届かないことで健康を害するときもあるわけですから。うんそれやっぱり一番底辺と捉えられている仕事を我々やってるんで、それを格上げしていきたいなというふうに思っています。
ウ:ありがとうございます。最後に言える範囲で結構です。一般の方々に向けて、車の洗車とか、内装の掃除とか、こんなところにちょっとコツがあるので気をつけるとキレイにになるよっていうのを教えていただけますか。
カ:自分が洗車の道に入ったときに一番最初に教えてもらった言葉。「汚れたら洗え、そして拭きに徹しろ」という言葉があってね。やっぱり汚れたら洗うという習慣をまずつけるっていうことです。洗ったら一生懸命拭き取りをするっていうことが大事ってことですよ。これを続けていれば、車っていうのはいつもキレイにに保つことができるんじゃないかなと思います。
汚れたら、雨の中走ったらまず洗いなさいってことですね。そのあとから拭きですよ。この繰り返しが車をキレイにする。難しいこといえばいろいろあるんだけど、まずは汚れたら洗うと、あとは拭きに徹するっていうこと。
ということを、この高木名人、おじいちゃんから教えてもらいました。
ウ:この方ってまだお元気でいらっしゃるんですか。
カ:もう亡くなったんじゃなかったですかね。だって平成6年で六十代半ばですしね。昭和9年生まれだったら俺の親父と一緒だな。昭和9年だと思う。90近いですね。もう90ぐらいなんで、多分亡くなってると思うね。簡単なことしか書いてないんだけど、この簡単なことがね、意外とみんなできなかったんですよ。「汚れたら洗え、そして拭きに徹しろ」が高木名人の言葉だったんで、これはいまでもずっと守ってますね。
ウ:ありがとうございました。