【ユタカの部屋vol.42 瀬野和弘氏】
ウジイ(以下ウ:)よろしくお願いします。村山市の出身ということなので、そこからの経歴を教えてください。
瀬野(以下セ:)生まれは1957年、昭和32年生まれです。今年67になりました。村山の大久保地区の出身です。高校までは地元にいて、それ以降東京の専門学校行きました。専門学校の専攻は実は建築じゃないんですよ。インテリアデザインというか、そういうデザイン系の学科だったんですね。建築に関しては学校教育としては無学なんです。実はその学校には建築学科もあって、そこには仲間や友達もたくさんいました。そこで自分のやってることにちょっと違和感を憶えまして、建築に興味が移りました。
でも専門学校ではインテリアデザイン学科の単位しか取れませんからそれはがんばって取りました。当時知らなかったんですけど、建築っていうのは何やら資格がいると。建築士の資格がないと仕事をしちゃいけないっていうような学問の世界なんだなというところにあらためて驚いたりしたんですけど、何はともあれやりたいことはやっていかないとなということで、その専門校卒業して1年半ぐらいはインテリアデザイン会社に拾ってもらってそこでいわゆる丁稚奉公です。そこにいたときに、建設会社での仕事の話があって、それでそっちに引きずられるままに行っちゃったっていう、平たく言うとそんな感じです。大手の建設会社でしたからそこの設計部とはいっても、僕はインテリア出身ですから、インテリアデザイン部門に行くのだろうと思っていたらなぜか建築部だったんです。当時は全部製図板にトレーシングペーパーを乗せて手で図面を書くという時代でした。平行定規っていう、製図板の端と端に押さえがついて上下しかできないもので、角度を作るときには三角定規で、というようなことから建築の世界に入りました。修行の身ですからとにもかくにも言われたことをまずはやらなきゃしょうがないねっていうところから始まりました。
だから周りの同期の人たちはみんなが僕より年上で、そりゃそうですよね。僕は専門卒ですから。
みんな4大卒当たり前、修士博士…それで足りなくて海外のハーバードがどうしたと聞いたことないような大学の名門校がいっぱい出てくるやつらばかりなわけです。飲み会とか当然頻繁にあったわけですけど、そこに行くと同じ部屋の連中がもう飲んだくれて朝出てこないわけですよ。僕は酒が飲めなかったんです、当時。朝会社に行って仕事をするわけだけど、奴らの製図を見てみると何も書いてないじゃないかっていう状態で、ノルマの仕事はわかるわけだから自分のノルマだけでは飽き足らずに、そっち行って書いたりこっちで書いたりとか…いわゆるお手伝いをして、こいつは書くことはできるなっていうふうに認められたんでしょうね。何て言うんでしょう、修行時代は苦しかったけど楽しかったっていう、そんな印象ですよね。
ウ:それ何歳の頃ですか
セ:22ぐらいのときです。
そこでずっと修行させてもらって、足かけ10年、それで一応独立したんです。でも独立するときには1級建築士取ってませんでした。2級はは持ってましたけど。ちょうどたまたま同じ仲間が独立するのがいて、それが1級を持ってたので。
ウ:1級と2級の違いって何ですか。
セ:1級建築士2級建築士ってあって、それとは別に木造建築士なんてあるんですけど、単純に1級と2級は何が違うかっていうと、扱ってもいい設計をしてもいい規模が違う。
つまりビルディングタイプは1級建築士じゃないとできない。木造レベルだったら規模もあるんですけど、500平米までとかだったら2級建築士でできる。住宅専門にやる人、大工さんとかいますよね。昔からそういう人たちにも資格を与えないと単独で仕事もできなくなるから木造建築士ってのが一応あって、それはもっぱら昔ながらの個人住宅とか、そういう規模の小さい2階建て以下の木造限定のその専門による人の資格があります。一応1級建築士なんで、僕は犬小屋から超高層までって言ってるんですけど、超高層の設計もできる資格にはなってるんですよ。実際やれるやれないは別にして。
今は木造の一般のお宅を中心に、たまに同じ木造でもちょっとその他の施設だとか、お店だとか、旅館だとか歯医者さんとか、一応オールマイティーにやっています。
あとは今言ったような木造、木でつくる建築ですけど、鉄でつくる建築、それからコンクリートで造る建築、コンクリートと鉄を一緒で作るとかいろいろあるわけですよね。様々ハイブリッドになってるわけですけどそういうものも全部一応できるよやっていいよって言う資格が1級建築士です。2級建築士は500平米までを木造かコンクリートでも200平米までという規模の枠がある。それはまあ仕方ないことで…でも一応とりあえずは何でもやっていいってことにはなってるんですよ。やる機会がなかなかないという現状はありますけどね。
ウ:独立したきっかけって何かあるんですか。
セ:きっかけはあります。いわゆる勤めてたときの後半になってから、1984年なんですけど、やっぱり自分の家ぐらいは自分でやりたいっていう衝動に駆られるんですよね。でも大手のゼネコンでしたから木造をやる機会がまずなくて、それこそ独学でやるしかない、見よう見まねで人がやったやつとか、いたずら半分にやっていたんですけど、いよいよ山形の実家を建て直すっていったときに、これは絶対俺だよねっていう感じでやったのがきっかけでした。当然勤めてるときで、やっと土曜の休みが月2回始まったぐらいのときでしたから、そのときは土曜日の最終便に乗って山形に飛んで、月曜日の早い飛行機ありましたからで会社にそのままいって、それで1週間過ごしてまた来るみたいなそれを繰り返したのが最初です。それ(実家の建築)が終わってまた通常のサラリーマン生活に戻るかなと思ってたときに、今度は近所の友達がウチもやってくれという…それが数珠つなぎにとんとんと続いちゃうんですよね。気がついたら1〜2年ぐらいすぐ経ってますから。そして1988年に独立したんです。会社にいづらくなっちゃったんです。
お前アルバイトの方が忙しいんじゃね?って話になったんですよ。今度は自分の母校である専門学校から非常勤の講師で来いとか言われて、それは一応会社のお許しが出て週1回行ってたんですけどでもそれはちょっといよいよ具合が悪いかもなって、これはもう出て行けって言われる前に自分から去った方がいいか、というようなことで会社を辞めましたね。ただそのときには先ほど言ったようにまだ一級建築士の資格を持っていなかったから、仕事があるなしに関わらずやっぱり看板ぐらいは一級建築士って上げなきゃいけないよねってことなんですが、開業までには一級の取得が間に合わずに、一緒に独立しようと言った友人がたまたま持ってたんで、そいつの名義で一応有限会社を作ったんですね。「お互い軌道に乗るまでの仮の住まいだから一生一緒にやるやるつもりはないよ」ってことをお互いに申し合わせていたんです。たまたまラッキーにもそれから僕2年後に1級取れたので、もう完全に事務所の中でも二人がやってる仕事が全く別々のものですから、共同作業なんて全くないし、私いらないよねって話になっちゃって、相手もいらないっちゃいらないけど別にいて困るもんじゃないしいいんじゃないって言ってたけど、今度は自分も結婚するとかそんな話になったときで、自宅に帰らなきゃならない事情にあったということで、それから1人立ちしました。会社の代表権は僕が持っていたので僕が会社をそのまま引き継いだっていう形になったのが、いわゆる事務的な独立の手続きですね。1988年〜1989年ぐらいですから世の中バブルの真っ最中だった。好景気に沸いて建築バブルもそうだし全てにおいてスゴかったですよね。投資、投資、投資っていうような時代ですから。独立したてのときにもう仕事があり余ってしょうがない。ゼネコン上がりだからなのかは別にして開発系の仕事とかどんどん来るようになりましたね。公団絡みの仕事だとか、高層マンションが乱立するような団地の計画だったりとか、そんなことから始まりましたね。
ウ:発注元はどういうところが多かったんですか
セ:やっぱり自分の出身の建設会社とか、その会社もグループを持ってますから、不動産会社とか何かいっぱい持ってますよね。そういったところが「お前辞めたんだって?」っていうことで話が来ましたね。だから設計事務所といっても「何やってんだろね僕ら」みたいな…まち作り会社じゃないし都市計画プランナーでも何でもないし、もうとにかくやれることはやるみんなやっちゃおう、書けば何とかなるんだからみたいな話になってやってました。
それが独立後直後の業務主体だったんですけど、でもやっぱり自分の本音として木造建築がやりたいんですよ。
なぜなぜならば、数年前に自分の家も建てているわけですから。この建てた家が自分の家だから僕はっきり言いますけど、大失敗作なわけですよ。こんなのないよねっていうぐらい大失敗。息子の設計だからなのか両親が今でも住んでますけどね。僕にとってももう大失敗作で、こんなんじゃないよねっていう。2作目3作目4作目5作目…と続いていってたのでそれはそれで細々とやってたんですね。
友達の家だとか親戚の家だったりとかってやつです。だいたい山形です。でも立ち上げた会社の主たる業務は工場とかそんな開発の仕事ばっかりやっていながら木造住宅も細々とやっているんですが、それからどうしても足が抜けられない中でも、「でも俺の主体はこっち(木造建築)だよな」っていう、どっかで思い込みが続いていてそれが今に繋がってるのかなと。ここにシフトできるきっかけもありました。ちょうど10年後96年の年に福島県のいわき市っていうところでまち作りコンクールをずっとやってたのを知って、その中に僕が参加した家作りコンペもできたんですよ。その家作りコンペってのは何かっていうとアイディアコンペじゃなくて、実際にオーナーを1人募って、そしてその人のために全国から設計案を募るっていうコンペなんですね。
全国からくるわけだから当選なんかするわけないし、遊び半分で応募してみようかと思ったら当選しちゃったんです。それがおおきなきっかけかもしれないですね、住宅にシフトできた。幸か不幸かあらぬ事が翌年も起こりました。翌年も同じコンペがあって、そこで2年連続受賞しちゃったんです。トントンと2年たてつづけにいわきに通って、この家を設計して管理して、こっちの家も設計して管理してっていうような仕事が続いちゃったわけです。あいつは何だっていうことなったんでしょうね。メディアでは騒がれるし、テレビ新聞、面白いのがいるよっていう話になってたときから、実は世の中も建築家住宅ブームが巻き起こった時代なんですよ1990年以降。住宅建築家、住宅を作れる建築家をどこで探すかってなるとみんなコンビニエンスストアにいったんです。コンビニに様々な雑誌あるじゃないですか、生活雑誌みたいな。それを見ると僕らがヘラヘラ笑って答えてる。じゃあこの人に頼みたいよねっていうことでコンビニで建築を探した時代がしばらくあった。
このSNSとか、そういったものに移行するちょっと前ですから。
そこでブレークしちゃって全国ってのはそっから始まるんです。全国から引き合いがくるようになると、僕はお駄賃と交通費だけもらえばどこでも行きますよっていう主義でしたから。それあちこち東奔西走してましたね。今やっと落ち着いていますけどね、そんなのが生い立ちでございます。
ウ:その後、軸足を東京からはい山形に置いたというか二つ置いてるのかもしれないすけど、事務所をこっちにも置かなきゃって思ったきっかけはあるんですか。
セ:今でも東京からの通いで全然できるんですけどただやっぱり、心の中で今もそうですけど、いつかはこっちに戻りたいっていう願望がやっぱりあって、僕は明日でも明後日でもいいんですけどね。でもまず食べていかなくてはいけない。仕事をどう発掘するか、依頼者もいるかいないかっていうのにかかっているわけですよ。だからそういうチャンスを広げるためにも、出張所みたいなのがあった方がいいかなっていう、全くの私利私欲から来ております。よろしくお願いします。
ウ:設計士、建築家というと言われている人たちの仕事ってざっくり言うと、どういう仕事かを紹介してもらっていいですか
セ:住まいを中心に語れば、やっぱり住まいっていうのは、住まい方っていう中身の話なんですよ。僕はその住まう箱、モノの中に家族の住まい方、暮らしをいかに充実させるかっていう役割を担ってる職業なのかなと思いますね。
だから図面を書いて物を建てるんだというところまでがつまり「モノ」中心のことだと思う。当然それは役割としては重要なんですが、やっぱり僕らは「住まうこと」を考えさせていただいてるんですよ。その人たち、家族の生活像もきっちりとその中に組み込んで設計するべきだと思うんです。わかりやすい例でいうと、よく建築家界隈では作ったものを作品っていうんですよね。言っちゃいけないっていうわけじゃないんですけど、それは建築家本人が決めることじゃなくて、客観論として皆さんが評価してくれるときに作品だったり、これはいい建築だねっていうのはあるかもしれないけど、僕らは頼まれて設計しているんだと。作品なんか頼まれてないわけですよ。
じゃあ何を頼まれているのっていたら生活者の皆さんからは、いい家を建ててねって言われるわけですよね。だからまず、ちゃんと家にしなければならない。そのためには外見だけじゃなくて、ちゃんと中身(生活)も成立させた物作りでなければダメだよねっていう話です。
その後、瀬野さんやってくれたのはいい家でもあるんだけどもいい建築になってるねって言われればありがとうございますって、だからもう形優先のものではないっていうことです。姿形優先のままでは家づくりっていってはいけないよね。
もちろん周辺環境のこともありますし、家は自然界の様々な脅威に晒されるんです。山形なら雪なんて一番のテーマですよね。そういった地域地域における特性をいかに暮らしと共生させられるかっていうようなことを考えていくしかないかなとは思いますけどね。
デザイン優先ではないですね。デザインは僕の場合はどっちかというと、くっついてくるものなんです。だって山の中にこのビルディングはないでしょみたいな話で、雪降る山形なのに屋根がどこについているのかわからないような建物とか…。雪の始末の問題っていの一番に来るよねって。もう残念ながらって言ったらいいのか、世の中を見渡すと雪国だろうなんだろうが、屋根は一応ついて勾配もついてるんだけれども、雪を落とすというような屋根の目的にはもうなってないよねっていうのが僕らの印象です。
一番のネックは、それに今は車社会だから車を優先的に通さなきゃなんないってことで道路の除雪を優先して税金補正予算まで組んで除雪しなきゃならないってことで、「春になれば溶けてなくなるのにな、大変だな、どこの街も」っていうふうに僕らは冷ややかな目で見てるんですけど、でもそれは建築がいけないねっていう一方で、そういう建築を提供したのが誰?俺らか!みたいなことになるわけじゃないですか。だったら郷に入れば郷に従えじゃないけど、雪が降るんだったら春まで雪を抱いていられるような家作りというのは基本中の基本じゃないかなと思う。
でも誰もそん家を建ててくれる人がいないのでね。瀬野さんに頼むとみんな三角小屋になっちゃうのみたいな話になっちゃうのは嫌だか、らそこから説明しなきゃならないじゃないですか。「これだったら雪下ろしをしなくてもいいよ、じいちゃんばあちゃんしかもういないんでしょう」とか。そういう暮らし向きに沿うような家の形に持っていかないとうまくないですよね。だから形優先じゃないと言っても、やっぱりまず
原点ってのがやっぱり何にでもあって、なぜ三角なのかっていう説明をしなきゃいけない。何でもないところに行って「俺は三角好きだから三角の建築やってください」って言っても誰も相手にしてくれない(笑)
ここだったら三角の建築が成立する。そういう順番なんですよ。こだわりですよね。
そういう個々のこだわりがなければみんな同じというか、建築家たるものはこういう風体から始まって、わがままでカッコ優先でみたいな設計頼まれてるくせにクライアントと形状云々で喧嘩してやめて帰ってきたとか、そんなのばっかりですから。僕はそこはないかなと思って。今人一倍喋る方ですけれども人一倍聞く方でもあるよ、というような態度はとっているつもりです。
家族だって子供はいるわけで、当然ね。僕は家っていうのは子供を育てる装置だとか道具だと思ってますから。
それは、子供が成長するまでの一時的なものじゃなくて、そこに循環という言葉が入ってくるんです。世代循環ですよね。世代って循環するわけで、同じ家で世代が循環して、息子が学校を卒業して帰ってきたよ、息子が嫁さんもらったよ、子供が生まれたよってことで、じいちゃんばあちゃんたちは隠居するのをどこにしたの?どこの老人ホームいったの?うん、家にいるよ。そういう一つの屋根の下、家の中で世代循環が図れるような家を、ちゃんと現代社会の中で設計できたら、優等生じゃないかなと思います。みんな核家族でバラバラな家を設計するのが今我々の役割みたいなってるじゃないですか。これにはすごい抵抗があって、こだわりの部分でもあるんです。何か一つ仕掛け的に面白いものないかな、世代循環に繋がることはないかなって考えたときに、キーワードはやっぱり子供なんですよ。若い人たちがクライアントに多かったんですけど、うち結婚して家を建てることになったんで、瀬野さんお願いしますってくるじゃないですか。
うちは一応子供2人あるいは3人予定してます。あるいは子供が1人はもういるとか、2人いて3歳児と2歳だとか様々。そして子供部屋はやっぱり六畳ぐらい必要だと思うから3人だから六畳間3つね、みたいなことで間取りをお願いしますってくるわけですよ。
お子さんいくつって言ってましたっけ?
3歳と2歳です。あともうじき生まれます。
その3人としましょうね。何、もう子供が1人ずつ六畳間欲しいなんて自分で言ってんの?
小さい子がそんなわけないでしょう。
だったら、あれ?ご主人も後ろでさっき一坪でいいから書斎が欲しいだとか言ってましたよっていうと、
いや、そんなんいらないじゃないの?とかって言ってるんですよね。
やっぱり書斎ぐらい作ってあげましょうよって。
六畳間3つの子供部屋に書斎なんか作ったらいる場所なくなっちゃうじゃないすか。
いやいやだから6×3で18畳も今子供部屋だっておっしゃったとこあるでしょ。子供が大きくなって自分たちからリクエストされるまでホールとして使ったらいいんじゃない?
どうせ2階でしょう?なんて決めつけてるんですよ。そこを今書斎一坪なんてこと言わないで、18畳だった18畳でいいじゃない、全部使えるもんならね。書斎だけでじゃないし飲み食いだってするでしょ、友達も来るでしょう、宴会もするでしょう。呼びたいでしょ、家建てたら。こういうわけですよ。そうするとやっぱりそうだねって、客間もいるね、泊まっていく人もいるかもしれない。間仕切りなんかなくったって、そんな一晩泊まるくらいましてや知り合いの人だったら雑魚寝だって良いわけだし。
ここを多目的室っていう用途で使えませんかと、そしてそのうち子供たちが言ってきますからと。中学生くらいになったら「お母さんなんでうちって個室がないの?子供部屋ないの?」「何それ欲しいの?」「うん。」こういう会話から「だったらここのスペースがあるから、間取りにしなさいよ」と「漫画でも何でもいいから書きなさい。そしたら瀬野さんにまた作ってもらうから、お願いするから」というふうな、後のアルバイトも計算に入れた提案をするわけですよ(笑)
冗談ですけどね、でもそれが現実に起こっていて「すいません、約束覚えてるよね。高校と中学になりましたよ。」「もうそんなに大きくなったの!で、今何かで仕切ってるの?」「いや、そのままでいるんですよ」っていうから「わかった!ちょっと行くよ」て行くじゃないですか。そうすると子供ってのはもう賢いっていうかやっぱりすごいですよ。なぜ仕切るかっていうとプライバシーをどうしいかって話になるじゃないすか。プライバシーなんてのは、大部屋育ちの子供たちってね、もう感覚でわかるんですよ。見る見ない。聞く聞かない。じゃないですか。身体的なプライバシーを図る一つの指標としては。そうすると、そういうプライバシーを分けるっていうことに関しては、子供たちはほとんどの家庭でみんなもう出来ちゃってるんですよ。でも子供が欲しがってる、受験とかもあるからっていうことを聞いて行くと、こういう間取りね、これでいいいの?こんなんで。
イメージ写真なんかつけてくる場合もあるわけですよ。そうすると「これ壁じゃなくて簀の子じゃん!」みたいな。「いやだって瀬野さん簀の子にいろいろ引っ掛けられるでしょう?」とか工夫も考えてくるんです。「すげえなキミ!でもこれじゃ見えるよね」「今だって見えてるんだから構わないよ」っていうんだから。とにかく仕切ってるっていうことが大事なんだって。これだ!と思って。本当のプライバシーってのはそういうところであって、もっともっとメンタルに直結してるもんで何でもかんでも分けるのは、実は親なんですよ。だから自主性を持たせるんだったら本当にほっといて、そうすればいやでも議論してくるから、それに受け答えるぐらいのゆとりの暮らしだったらいいんじゃないかと思うんですよ。
こんなこと言ってるだけでもめちゃめちゃ親子の、家族の会話が生まれませんか?大事なのはここですよ。
今度は物理的な話をすると、今までそういうことをずっともう300件近くやってきているわけですよ。そのご家庭では、ひねくれた子が1人もいない。これだけは僕の財産、誇りだと思っています。
あ、ごめんなさい1人います。うちの子。これは原因があって、借家だったんです(笑)しかも個室があって全部ドアは外したんだけど駄目でしたね。ウチの上の子だけは駄目でしたね。あれは高校に入る寸前かな、もう大グレで…。
我が家の話ですけど男の子2人年子で、弟おとなしい子なんですよ。マンションですから、入口入って振り分けで二つ部屋があって。廊下を渡って水回りがあって奥にリビング、我々の寝室の典型的な3LDKなわけです。
小学校一年生の時に引っ越しましたから、最初にもうドア外したんです。親も不公平になると悪いんでリビングとの間のふすまを外したりしたんですよ。
いつなんどき「ドアがないじゃないかつけろよ」とかっていうことが起きるかどうか見てたんです。それはなかったんですけど、でもやっぱり上の子はちょっと距離があるから、うんそもそも隠し事するのかどうかわからんけどとにかくグレたんですよ。
あるひ下の子が「お兄ちゃん外で騒いでる」「外で暴れてる」って教えてくれたんです。「なに?」って外に出るじゃないですか。そうすると何か赤いのが光ってて、なんかもう一つ向こうから来たよ。とかって話になって。うち練馬区と杉並のちょうど境なんですけど、両方からおまわりさんが来ちゃった。マンションの前でお巡りさんに押さえられてるわけです。そしたらもう1人おじさんがいて、
押し問答してたんでしょうね。押さえつけているおじさんが僕の顔を見て「瀬野さ〜ん!」マンションの下のご主人だった。
「瀬野さんって、この人のまさと君?長男の?」「すいません、申し訳ない。」「ひどいよ瀬野さん!」そりゃそうですよね。
おまわりさんから調査されて、どういうご家庭でどういう暮らしされてるのかとか余計なことを聞かれてムカッときたんだけど、余計なお世話だと思って、自分とこだけ大失敗じゃん、これ。と思って。
無駄話でしたが、とにかくでもやっぱり一番のこだわりはそこかも知れない。家庭の暮らしっていうのは何かっていうのは子供が中心なんです。子供がいないお客様もいっぱいいますけどね。
それでもやっぱり最終的なキーワードとしては、建物は世代循環するための装置としていられるかっていうのがもうずっと僕らの永遠のテーマかなと思っています。
ウ:今、仕事で手がけた物件で一番南でどこですか、南は沖縄。北は…北海道ですか。
セ:北海道はないんですよ。計画はあったんですけどね、青森です。八戸が北限かな今のところ。あとは山形はいろいろお仕事いただいてますから。
ウ:日本全国見てきた中で、山形に帰ると、うん、ここ地元っていいななんて思うところはありますか?
セ:僕はみんなが一番不憫に思っている雪かな。雪はまだまだいわゆる建築資材とは言わないけど、建築とこうタイアップして使える材料だなと思いますよね。一番わかりやすいのは雪下ろしない家を作ろうよと。
雪下ろししなくてもいいただ丈夫な家じゃないんですよ。もう物理の原理で三角が一番手っ取り早いわけですから。雪囲いってみんなこう板で囲うじゃないですか。大体斜め、三角にかけますよね。やっぱり一番合理的だからです。力関係において。
そして春になるまで埋もれていられる。ただ家だから、埋もれたらかまくらの中に住むわけじゃないからだめじゃないですか。でも三角ですから、三角のこの3角目の妻面なんていうんですけど、ここだけは両側開くじゃないですか。ここは完全に下がったからこっちとこっちを開いてもいいプランニングを考えれば、
成立するんですよ。中身もすべて三角じゃなくても、外の形が三角でも中身、断面としては少し小立ち上げてもいいわけですから。
そしたら底辺が少し開きますよね。そこ空気をもらう開口部と反対側は空気を出す方の開口部にすれば、非常に合理的な三角屋根。これ一番の目的は雪をどう抑えるか。夏だって底辺の三角形が風通しになりますから。こっちは抜く方こっちは入れる方みたいな。
すごい明確にわかれるんで、なんかいちいちフードとかつけなくても、自然の摂理で風の流れができるわけですよね。まずはそういうこと。
あとは全国的に同じものもあって、人々の暮らし向きなんてのはそう大差ない。気候によっての違いはあっても、今も情報社会ですから、人々の暮らしで、九州と北海道の人の暮らしの中で完璧に違うものって何って聞かれたら、なんだろうねって感じじゃないですか。世帯的なもの、さっき核家族っていいますけど、それだってみんな一緒だし、どんどんどんどん離れていくっていうかな、例えば村山市だってそうですよね。人口増えないのに何で新しい団地作って建てるのかなって、不思議じゃないですか?だって入植者いないのに…ある意味核家族だからですよね。みんな家を離れる。子供が結婚したから家建ててあげた。人口が一向に増えないのに子供が生まれるのはまた別ですけど、というようなことが、本当にいいことかどうかを考えるおじさんが1人ぐらいいてもいいんじゃないかと。それは先ほども申し上げた世代循環に通じるようになるんですよ。つまり、対話があるところが家族なんだという考えが出発点なんです。みんなバラバラになってしまっては、別に血縁がどうこうっていうわけじゃないですけども、本当に言葉の通り核家族になっちゃって、同じ家族同士なのに違うよね。おじいちゃんおばあちゃんは家族じゃないっていう社会ですからね。
だからそういうのはどうかなって。考えが古いっていわれればそれまでなんですけど、でも本当の人と人の絆みたいなものっていうのは、愛情も含めてですけどどうしたらちゃんと形成できるんだろうね、ちゃんと子供たちにもそういう教育が可能なのかなって。やっぱり家ってかなりの責任を負ってるんだなっていうのは日々考えなければならないテーマですよね。
ウ:ありがとうございます。
セ:綺麗事ばかりで申し訳ないです。うまくまとまりました。こんなことばっか考えてます。ありがとうございます。