【ユタカの部屋 vol.41 伊藤こず恵氏】
ウジイ(以下ウ):経歴から教えてください。出身はどことかどういった学校を卒業したとかそういうところをお願いします。
伊藤(以下イ):はい、出身は村山市で、地元の村山市立袖崎中学校を卒業した後に、同じ村山市内の山形県立楯岡高等学校を卒業しました。あまりどこの高校に行きたいとかというのもなく、本当に地元の学校、家から一番近い学校に行こうと思いました。
その後は仙台の宮城学院女子大学に行って、初めて親元を離れて一人暮らしを始めました。
ウ:何学部だったんですか?
イ:学芸学部っていうのがあって、その中の人間文化学科っていうところに進みました。人間文化学科は主に社会学心理学とか脳科学とか哲学とかその辺の分野を教わる感じです。
ウ:そこの卒業生はどういう職に就く人が多いですか?
イ:学校の社会の先生になる人もいたし、あと普通に公務員になる方もいます。
社会の縮図だったりとか、人間と社会との関わりがどうなっていくのか、みたいなところも学びたかったんです。私は社会学がすごく好きで、そこを深掘りして学べる分野はないかなって思って、宮城学院女子大学選びました。
ウ:卒業した後はどういう職につきましたか?
イ:そのときにはアナウンサーになりたいなっていうのは何となく思っていたんです。でもことごとく就職活動に失敗して。どうしようと思った大学4年のときにボランティアで山形のFM局の番組のアシスタントをやったんですよ。
夕方のワイド番組のメインMCがいて、そのアシスタントMCです。アシスタントを募集するっていうのをたまたまラジオ聞いてて、アナウンサー志望だったのでこれはちょっと何かの良いきっかけになるかもしれないなと思って、大学の4年の半年間だけアルバイトで夕方の番組アシスタントDJをやっていたんです。それきっかけでラジオはすごく面白いなって思いました。そのタイミングで仙台のコミュニティFM局でちょうど人が今が足りていないっていうので拾ってもらって、契約社員として仙台市内のコミュニティラジオ局に就職しました。
でも本当は東京のキー局とかテレビ局とか行きたかったんですけど全然駄目だったので、何とか拾ってもらったってところがラジオ局ですね。
ウ:アナウンサーになりたいって最初に思ったのはいつ頃で、どんなきっかけですか?
イ:めちゃめちゃ不純な動機で…。私、父の影響で野球観戦が好きだったんですよ。読売ジャイアンツがすごく好きで、当時野球選手と近づく方法って何だろうなって考えたときに、アナウンサーと結婚する野球選手が多かったじゃないですか。野球選手と近づくためにはアナウンサーになれはいいんだっていう…。めちゃくちゃな動機でアナウンサーという職業に憧れてたんです。それが中学生くらいのときですね。
ウ:最初は夢だったものが、それを現実に就職先として考えるようになったのはいつ頃ですか。
イ:高校受験の時期に深夜ラジオもよく聞いてたんですよ。勉強あまりせずに、ラジオの楽しさみたいなのもそこでわかったので大学卒業して就職するとき、もちろんテレビ局は受けました。もしかしたらっていう淡い期待も込めて。でも駄目だったのでラジオも挑戦しようかなと思ったのでラジオをやってみました。
ウ:仙台のコミュニティFMに就職されたその後は?
イ:そこで4年間契約社員として働いてたんですけどもかなり激務で。人数(スタッフ)少ない中でやってる放送局なので、番組を作る編成っていうところから、自分で取材先を探し、アポを取って取材に行き、戻ってきてそれを編集して放送するっていうところまでアナウンサーがが全部1人でやってたんですよ。
入社していきなり5時間の生放送を任せられたんですよ。かなりハードワークだったので、少し体調を崩しがちになって、ここは一旦区切りをつけて自分好きなように働ける環境を作ろうと思ってフリーランスっていう道を選びました。
退職するタイミングを見計らっていたときに、仙台市内にある番組とかイベントとかを仕掛けている制作会社の人にその話をしたら、その方が次の4月から仙台のFM局で新しい番組を作ることになっていて、今その喋り手を探しているっていう話をもらったんですよ。本当にタイミングが良くて。とりあえず会社という組織から離れて、自分の体のこともいたわりながら仕事しようかなっていうふうに思いました。
何とかなるだろうっていう思いがあって何も先のこと考えてなかったんですけど、たまたまその制作会社の方に声をかけてもらって、新しい番組始まるからDJどうだっていうことで。週の帯番組で月火水木の4曜日のうちの2曜日担当してもらえないかって声かけてもらってたので、やめてすぐもう次の年度の4月からFM仙台の夕方の番組を担当させていただくことになったんですよ。
そこで3年かな。FM仙台の局アナとしてではなくて、フリーランスとして番組契約っていう形ですね。
週2回の帯番組だとギリギリ一人暮らしできるくらいの収入でしたね。でもやっぱりその番組だけの収入で足りなかったりもするので、別にCMのナレーションとか、イベントの司会っていうのもたまにやったりしてました。
イベント会社とか団体とかに営業に行くと初めは全然お仕事いただけなくて、やっぱりFMラジオで番組を担当するようになってから自分の名前と声を多くの人に知ってもらうきっかけがあって、声をかけてもらったりとか、紹介で繋いでくれたりとかが増えてきました。
アナウンサーや司会を探してる人がいるみたいなんだけど、私の名前を候補者として出していいって言ってもらったりとか、本当に自分からあまりアクションを動かさなくてFM仙台の夕方のラジオ番組を担当するのがきっかけで、いろいろと繋がっていったっていうのが大きなところかもしれないです。
ウ:今までの話だと、ずっとお隣宮城県でのお仕事の話ですが、山形に戻ってきて山形で仕事をするようになったのはいつぐらいからですか。
イ:結婚と出産を機に山形に戻ってきました。
夫は仙台の人なんですけど、脱サラして農業やりたいので私の実家に入って農業やっても全然構わないって言ってくれたので婿養子として迎え入れて、出産を機に戻ってきました。
ウ:実家のお父さんお母さん喜んだんじゃないですか。
イ:そうですかね、喜んだかもしれないですね。今の時代なかなか喜んで婿養子で入ってくる人なんていないですからね。
ウ:こっちに戻ってきてご実家を拠点にしたんですか。
イ:そうですね。村山生まれですけど、家族で東根市に引っ越していたので、仙台から山形に戻ってきたときには東根が実家になっていて、そこでしばらく子育てをしてました。1年ぐらいですかね。
ウ:旦那さんは今でも農業やられてますか?
イ:やってますね。
ウ素晴らしいです。どんな作物やってますか?
イ:今いろいろやってますね。無農薬野菜とか果物を栽培して生産と販売の力を入れて、無農薬で作ったブドウを使ったワインを作ったりとかいろいろ手広くやってます。
ウ:こちらに戻ってきて山形での仕事は、仙台にいたときからの繋がりの仕事だったんですか。
イ:子育てをするので仙台の番組をやめたんです。妊娠をきっかけに。子供が産まれてしばらく産休を取ってたんですけれども、それまで本当に山形での仕事って全然してなかったので、フリーランスではどこと繋がったらいいのかわからなくて、全然仕事なかったんです。ある人に、山形の広告代理店と制作会社をまた紹介してもらって、その時本当に生まれて初めて「今フリーランスで活動してるので、何かあればお声掛けください」って履歴書持っていったのを覚えてます。
ウ:山形での一番最初の仕事って何でしたか。
イ:ラジオの前ですね。本当にまだ子供がちっちゃい時、仕事休んでるときに、ある方の褒章記念祝賀会があって、うちの母親の知り合いだったんですね。その司会をやってくれってお願いされたのが、多分こっち来てからの初めての仕事だったと記憶してます。その後ラジオの番組を担当したんですよ。山形のFMの、お昼の30分の番組でしたね。それも本当に面白くて、カーラジオから聞こえてきたパーソナリティ募集の告知を聞いたんです。そのときまだ何の番組担当するかなんていうことは言ってませんでしたけど、そのFM山形のパーソナリティ募集っていう告知CMを聞いて、そろそろラジオにも復帰したいタイミングだなと思ってたので、応募しました。音声テストとか漢字テストとかをして、運よくそこでも拾ってもらって、担当してもらうのはお昼の30分の生放送の場合番組ですっていうふうにそこで教えてもらって、それが本格的な山形でのパーソナリティの仕事です。
ウ:山形だとFM山形とYBCがあって、民法だとその二つだけですか。
イ:あとはコミュニティラジオ局がいくつか当時ありましたね。
その他にはイベントMCと、結婚式の司会とか、CMのナレーションと、葬儀の司会もあります。
ウ:仕事をしながら子育てっていう経験を教えてください。
イ:ありがたいことにフリーランスっていう仕事のスタイルをとっているので、子育てしやすい環境だと思うんですよね。自分で仕事をコントロールできるっていうところが大きいです。たとえば子供が小さいから、夕方以降の仕事は入れないとかそんなことも自分で選択できたっていうのがある。その辺は子育てと仕事のバランスを自分で決めることができる働き方として、フリーランスは合っていたなっていうふうに思います。
もちろん収入が安定しているってわけではないので難しさはあると思うんですけれども今考えてみれば何とかなったなっていう感じですね。経済的な部分に関しては。
こういう仕事をしているので、何か私子育てとか子供との関わりってなんか変に自信があってうまくやっていけるだろうと思ったんですけど、いざ子供産んで育ててみたら、本当に自分の思い通りに全然行かないし、自分の言うことが子供に伝わらないし、子供が何考えてるかわからないし、メンタル的には結構きつかったところがあったんですが、そのとき、FM仙台で私の担当する番組の次の番組を担当してたフリーのパーソナリティがいたんですけど、彼女とほぼ同世代で子供産んだたタイミングも同じだったんですよ。しばらく連絡取ってなかったんですけど、たまたまメールでやり取りしたときにお互いに「子育てホントしんどいよね」みたいな話をしたのがきっかけで、コーチングっていうコミュニカーションスキルを上げるための技術があるんだよっていうのを彼女に教えてもらったんです。何となくコーチングって名前は知ってたんだけれども、それが子育てにどう生かせるのかってのがわからなかったんですが、子供との関わり方を学ぶコーチング講座があるっていうのを彼女に教えてもらって、一緒にその講座を受けたんですよ。そこで子供との関わり方もそうですけど、声のかけ方だとか話の聞き方みたいなものを改めて学ぶ機会があって、子供との関わり方がだいぶ楽になったなっていう感じがします。
今まで喋る仕事をしてきたので人の話聞くとか、人に話をするとかっていうのは自分の中では得意分野だと勝手に思ってたんですけど全然違ったんだなっていうのを、その講座を受けてあらためてわかって、それですごく楽になったなって思います。コーチング講座ですごく楽になったっていうのと同世代の友達、子育てしてる同じぐらいの子供を育てている友達が近くにいたっていう安心感、あとやっぱ親が近くにいたっていうのも私は大きかったかなと思いますね。
何かあったときにすぐお願いできる人が近くにいたっていうのがすごくありがたかったなっていうのがあります。
ウ:今お子さんおいくつですか。
イ:今年の春から高校生になりました。女の子です。
ウ:高校生になって、何か変わりましたか。
イ:今仙台の高校に通ってるんですよ。あんまり変わってないような気がします。
急に口利かなくなったとか、何かそういうのないんですよねあんまり。結構何でも自分から話してくれるっていうか、どうだったってこっちから聞かないようにしてるからかな、高校生になってから。
今まではねずっと小学校中学校と長いお付き合いしてる友達がずっといたんですけど、知り合いがもう誰もいない。同じ中学校からも行ってない学校に通ってるのですごく本人も不安な部分もあるだろうし、まだまだ緊張感もある学校生活だと思うので、あんまりこちらからどうだったとか、今日どうだったみたいなことを聞かないようにはしてます。4月から新年度始まって1ヶ月経ちますけど、向こうから話してくるまで待つみたいな。本人が話したいっていう気持ちになったときに話してもらえたらいいかなと思ってます。
ウ:フリーアナウンサーとはこういうお仕事ですよとっていうのを紹介っていう形でして下さい。
イ:局アナさんとの違いは、やっぱ会社員かそうじゃないかっていうことが大きな違いすよね。なので局アナさんは多分喋る仕事ももちろんすると思うんですけれども局の中での部署異動ってのはあると思うので、来年から記者になってくださいっていう方もいると思うし、そういう違いはきっとあると思います。あとは完全にお給料制ですし。そんなところですかね。
ウ:フリーだと個人事業主ですか。
イ:そうですね、フリーだと個人事業主になるので仕事をしての対価がギャランティってでしょうかね、給料ではないですね、仕事に対しての報酬になります。それも仕事の内容とか、拘束時間によっても変わってきますね。
あとはやっぱり収入が安定しないので、例えば外のイベントがたくさんある5月から秋の10月、11月ぐらまでは繁忙期なんですけど、冬場になると特に山形は外でのイベントが少なくなるので、収入が減りますよね。そういうちょっと収入の増減が1年を通してあるってのは多分フリーランスかもしれないです。
ウ:山形以外の場所からもオファーがあったり仕事で行ったりしますか。
イ:今はそんなにないですかね。一番県外からの仕事で多いのは、地鎮祭とかの式典のお仕事が多いですね。その進行ということです。鍬入れの儀とか。
ウ:フリーMCさんがやられるのは初めて聞きました。
イ:主催者側で司会を立てるところもあるんですけど、ちゃんとプロの司会者を立ててくださいってお願いされる企業さんとか自治体さんもあるみたいで、お声掛けしてもらって県外に行くことが多いですね。
というのも震災後に施設がたくさん立つ機会が宮城、福島、岩手、太平洋側は多くあったので、それで声をかけていただいて行くことが多かったです。だから本当に宮城福島はよく行きますね。今でも地鎮祭とか、単発で仕事があります。
ウ:それは間に会社が入ってとかそういうことですか
イ:そうですね。施主さんがいて地鎮祭やるということで、そこをしつらえている会社があるんですけどそこからお話をもらいます。
山形県内であれば道路ですね。高速道路とか、作るときと出来たときの竣工式とか開通式とかですね。
ウ:最後に若い人たちでアナウンサーを目指してる人もいると思うんですよ。別に女子とか男子とか問わず、子育てママさんの立場からでもいいですし、何かアドバイスがあれば。
イ:アドバイスできるほどのものではないんですけど、こないだテレビで若い人にインタビューをしているたまたま見たんですけど、今の若い世代って、例えば自分に合う漫画とか本とか映画見るときに先にあらすじか、あと評価を見て、それで判断して自分が見たいと思うものを見たりとか、自分に合うっていうものを選んだりしてるっていうのを見たことがあったんですよ。
これだけ情報が溢れてるから、自分にとっての未知なる世界だったりとか、また体験したことのない世界って、もうないのかもしれないな、今の若い世代にとっては、と思ったんですよね。誰かが体験したことだったりとか、誰かが感じたことだったりっていうのがもう既にいっぱいネット上に広がってるじゃないですか。それを見て選択して自分に合うか合わないか、好きか嫌いかって選んでるんだなと思って
だけど何かその自分がこの先いく未来の選択肢を急いで判断して欲しくないなっていうのがなんかそこで思ったんですよね。
もちろん、参考にするのはいいと思うんですけどもなんかもうすぐ誰かが感じたこととか、誰かが体験したことで、合わない好き嫌いとか白黒つけちゃうともったいないなと思っていて。
というのも私去年初めてフリーランスのアナウンサーの先輩たちに誘われてゴルフやったんですよ。それまでずっと私なんか絶対無理だから、できないからやんないって断っていたんですけど、何か行かざるを得ない状況になって初めて去年ゴルフでラウンドでたんですよ。意外に面白くて楽しくて、この歳になっても、まだまだ体験してないこととか、自分がまだまだ感じたことのない世界ってあるんだなって思いました。なのでまずはやっぱりやってみることってすごく大事だなって思いました。特に若い人たちは、これはあの人が悪いって言ったから私やらないとか、あれいいってあの人が言ってたからやってみるじゃなくって、今自分がとりあえずやってみるっていう今の自分の感覚を大事にしてほしいなっていうふうに思うかな、何となくそうだなって実感しました。
若い人ってねやっぱりね、まず調べちゃうんすよね。評価全部出てくるし。テレビでこれ見た方がいいっていうのをやってたから私この本選びましたとか、この映画見ましたとかっていうのをやってて。
それが結果自分に合わなくても、いやそれはそれでいいじゃんって思うんですよね。それが自分の価値を知るきっかけにもなるじゃないですか。こういうタイプが合わないんだなとかこっちの路線意外に自分って好きなんだとかっていうきっかけにもなるから。
合うものだけとか好きなものだけを選択していくのってすごいもったいないなって。未来を見据えて選択する。基準を今に合わせて欲しいなって思います。